テーマ:コラム

 大学の授業では、時々テーマパークのアトラクションのようなスリルを体験することができ、今年は久しぶりに学生に戻ったように興奮しています。講義にお呼びした先生方が、新しい発見に導いてくれているからです。若いときから努力は報われると考えて行動してきましたが、年をとるとそうならない事も多いとなんとなく感じます。ただそう思うのもしゃくです。今年の授業での発見、過去の歴史や実践が示す「やったからこそ、無駄にならない。」によって、馬齢を重ねた身でも大いに元気づけられています。

 美濃地方は輪中の地域であることは昔から知っていましたが、豊かな農地が水との血の滲む苦闘の中から生まれ、産業振興によって貧困を抜け出してきたことは朝日大学に来て知りました。特に江戸時代に薩摩藩士が大きな犠牲を払って完成させた薩摩堤等の「宝暦の治水」のおかげでこの地域が安定したのだと思いこんでいました。

 しかし中学校の先生で理科を教え、生徒とともに地形をつぶさに見てまわり郷土史を調べられた酒井先生のお話によると、多くの献身的な犠牲を払った宝暦治水の結果は十分ではなく、長良川の上流は工事以前だと数日で退いていた水が滞るようになり、よりひどい洪水被害を受けたというのです。この結果、輪中は上流、現在の岐阜市にまで広がっていったそうです。もともと幕府の親藩である尾張に対し、豊かな土地で反逆が起きにくいように小藩に分割されていた美濃地方は、ますます地域の分断が進んだとも言えます。記録を見ると木曽三川における岐阜県(美濃地方)側の破堤回数は宝暦治水後に増加し、特に岐阜市内で被害は以前の3倍にも増えています。

 こうした状況が改善したのは、明治になってオランダ人技師デ・レーケを呼び、彼が一時的な工事ではかえって被害が拡大することを見抜き、上流の砂防堰堤工事と三川分流という根源対策を施した結果でした。しかしNHKでもとりあげ有名なのは宝暦工事を指揮した平田靱負です。酒井先生は、これが日露戦争後の不況や朝鮮大陸への進出の中で政治的プロパガンダとして平田をもちあげる運動が起き、利己主義のない日本精神の復興の象徴として薩摩義士こそ洪水を防いだ恩人との神話がうまれたことを示されました。もちろん薩摩藩士が努力して失敗したからこそ、それが無駄にならずデ・レーケが治水を完成させたと言えますが、その功績や努力はすでに忘れ去られています。

 デ・レーケとまったく同じことを、混乱のアフガニスタンで30年に渡って現在進められているのがペシャワール会の中村哲先生です。当初ライ病治療のために渡ったアフガニスタンで、予防的な問題解決にむけケガをしないサンダルづくりからはじめ、農村を復興させる井戸掘り、最後は大規模灌漑工事と洪水対策まで、政府の助けを得ずに取り組まれた方です。絶望的な政治・経済・衛生・自然環境の中で彼が学んで活かしたのは、九州筑後川での先人の失敗の歴史でした。6月には先生の奇跡を直接聞くことができます。 (岩崎)

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